2013年4月アーカイブ

4/28「川渡しの鯉のぼり」

初夏の空を鯉のぼりが泳ぐ季節ですが、近年、各地で見かける「川渡しの鯉のぼり」、その発祥の地といわれるのが四国、四万十町(しまんとちょう)の十和(とうわ)地区です。

昭和49年、少年達が
「最近は僕らぁが大きくなったき、家で鯉のぼりを上げてくれん」
と話しているのを聞いた村のお兄さん達が
「よっしゃ!おまんらぁの鯉のぼりを持ってこい。
まとめて上げちゃうき!」と、四万十川にロープを渡して50匹ほどの鯉のぼりをかけたのが始まりです。
その後、次第にあちこちから鯉のぼりが送られてくるようになって、500匹もの鯉のぼりが泳ぐ町の一大イベントになりました。

ところが40周年を迎える今年、開催の危機に迫られます。
毎年、風に流されたりして数を減らしていた鯉のぼりですが、とくに昨年は悪天候の影響で大量に失われたのです。
そこで町がホームページなどで呼び掛けたところ、全国から次々に鯉のぼりが届き、瞬く間に100匹を超えました。
しかも、「うちの子も二十(はたち)になりました」
「我が家の鯉のぼりを、最後は四万十川で泳がせてやってください」
など、たくさんの手紙が添えられていたのです。

子供達との約束から始まった「川渡しの鯉のぼり」は、今年、多くの人々の温かな心の風に元気よく泳いでいます。

4/21「新婚旅行ブームの宮崎駅」

九州の宮崎は、昭和35年から40年代にかけて新婚旅行のメッカで、多い年で37万組の新婚が宮崎に来ました。
当時は飛行機もいまほど普及してなかったため、交通手段は鉄道。
関西や関東から夜行列車に乗ってやって来る新婚さんたちを迎えるのが、宮崎駅の駅員です。

ある新婚夫婦が宮崎駅に着き、駅の案内所に立ち寄りました。
そこで観光バスのパンフレットを手にしてコースを検討する二人。
新婦が「私はこのコースがいいわ」と言えば、新郎は「俺はこのコースがいいな」と意見が合いません。
しばらく話し合いますが埒が明かず、ついには言い争いとなって、それぞれ別のコースに別れて行こうとしました。

そのやりとりを聞いてびっくりしたのは、案内所勤務の駅員。
「まあまあ、とにかく」と、二人を駅長室に招き入れ、駅長と二人して汗だくの仲裁をしたのです。
ようやく仲直りさせた夫婦を同じコースのバスに乗せて、ほっとしたという駅員さん。
新婚旅行のメッカだった宮崎駅の駅員は、列車だけではなく、新婚カップルの歩む人生の安心・安全を見守る仕事をしていたのです。

宮崎の新婚旅行ブームはもう昔のことですが、その懐かしい思い出を持つ多くの夫婦が、いま、フルムーン旅行で再び宮崎駅を訪れているそうです。

4/14「日本初の女性パイロット」

いま日本の空には多くの女性パイロットが活躍していますが、その草分けとなったのは明治生まれの兵頭精(ただし)という一人の女性です。

四国で生まれ育った彼女は、大空をめざして20歳で上京します。
その当時はまだ粗末な造りの飛行機が飛び始めたころ。
飛行機乗りは命知らずの男のやることで、女性が操縦するなど考えられない時代でした。
千葉県の飛行学校に入学を認められ、男性教習生たちに交じって厳しい訓練を受ける兵頭の存在は新聞でも紹介され、それに刺激を受けた女性も後を追って入学してきました。
そして大正11年3月、兵頭はついに3等飛行士の免許を取得。
日本初の女性パイロットが誕生したのです。

しかしその直後、彼女と或る男性との恋愛が、新聞各社から悪意に満ちた記事に書き立てられます。
その騒ぎによって「飛行学校が兵頭精を除名処分にする」と新聞が報道。それを読んだ彼女は飛行機の世界からふっつりと姿を消してしまい、やがて兵頭精の名前は忘れ去られていきました。

日本の航空史を研究する作家が彼女の居所を捜し出したのが昭和47年。作家が73歳になっていた兵頭に当時の飛行学校の卒業生名簿を見せると、年老いた彼女の顔がみるみる嬉しそうに輝いていきました。
その名簿には15番目に兵頭精の名前があります。
「除名処分する」という、あの新聞記事はデタラメだったのです。
日本の女性が飛行機を操縦して大空にはばたく道を切り開いた兵頭精。
その名誉はこのとき彼女の目の前で回復されたのです。

4/7「スポーツの人、平和の人」

これまで世界中の数えきれないほどのアスリートがオリンピックのメダリストになりましたが、その中でただ一人、ノーベル賞の受賞者がいます。 イギリスの陸上選手フィリップ・ノエル・ベーカー。
彼は学生だった1912年に、ストックホルムオリンピックのイギリス代表選手として男子1500mに出場して6位に入賞し、4年後のアントワープ・オリンピックでは銀メダルに輝きました。

その一方で、大学で国際政治学を学んだベーカーは卒業後に国会議員となり、一貫して国際平和の実現に取り組みます。
国際連盟の創設に力を尽くし、世界各国に軍縮を訴え、その後は反核、平和運動を推進。
その功績が認められ、1959年にノーベル平和賞を受賞しました。

オリンピックのメダリストで、かつノーベル賞を受賞したフィリップ・ノエル・ベーカー。
彼の中ではオリンピックと平和運動がひとつに結ばれていました。
「オリンピックは20世紀最大の平和運動。
国際政治もオリンピックから学ぶべきである」これは彼が常々訴えてきた言葉です。

1963年には広島の原爆犠牲者の追悼式に出席したのをはじめ、何度も広島を訪れて、世界に向かって核兵器の根絶をアピールしてきました。
広島ではそんな彼の功績を讃えた記念碑を設置。
そのレリーフには彼のことをこのように紹介しています。
「スポーツの人、平和の人--フィリップ・ノエル・ベーカー」。

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