2014年4月アーカイブ

4/27「刀を鍬に持ち替えて」

もうすぐ五月。
二日は「夏も近づく八十八夜」で、若葉が萌える茶畑には茶摘みの風景が広がりますが、お茶の産地、静岡では、かつて刀を鍬に持ち替えて、懸命に茶畑づくりに取り組んだ人々がいました。

明治維新の激動の中で江戸幕府の歴史に幕が下りると、徳川宗家は駿府藩に移され石高も大きく減らされて、多くの家臣が苦難の生活を強いられます。
このとき、幕府きっての剣の達人で、将軍を警護した精鋭隊の隊長、中條景昭(ちゅうじょうかげあき)が隊員達と大激論の末、牧之原台地(まきのはらだいち)の茶畑開拓を願い出るのです。
それは刀を捨て農民になるという大きな決断でした。

広大な荒れ地の開墾、茶の木の栽培に苦労を重ね、廃藩置県など時代の逆風にも耐えて、ついに明治六年の五月、初の収穫、製茶を行い、見事な新茶を作りだすのです。

実は廃藩置県の際に明治政府は中條の優れたリーダーシップを高く評価して、現在の知事にあたる県令への任命を内示したのですが、中條は「同志とともに山に入ったからには、牧之原の茶畑の肥やしになる」と断ったといわれます。

今日、日本を代表する大茶園となった牧之原。
そこでは今も、武士の志を持って生き抜いた人々を偲び「牧之原開拓幕臣子孫の会」が開かれています。

4/20「列車清掃員が見た修学旅行」

5月から6月にかけては修学旅行のシーズン。
新幹線の列車や駅のホームで生徒たちの賑やかな団体を見かける季節です。

埼玉県のある中学校に1通の手紙が届きました。
差出人は、東京駅で新幹線の清掃を担当する女性。
手紙は礼状でした。
その中学校の生徒たちが修学旅行で利用した新幹線の車両を点検したところ、ゴミがまったく落ちていないことにとても驚き、新幹線を奇麗に利用してもらった感謝と感激の気持ちでいっぱい、という内容でした。

列車にゴミを残さないように、と修学旅行を引率した教師がとくに指導したわけではありません。
じつは、修学旅行の実行委員長を務めた2年生の生徒が自主的に全クラスのホームルームに諮って申し合わせたことだったのです。
彼らは東京駅で新幹線を降りるとき、用意してきた袋にゴミを集め入れ、シートの向きを元通りにし、ヘッドレストのカバーを張り直し、床に落ちているお菓子のかけらなどを拾いながら下車したのです。

その手紙は学年集会で生徒たちに紹介されました。
生徒たちは大喜び。
生徒の行いが仕事をしている人に喜びを与えたのですが、自分たちが当たり前のことをきちんとやって、それを認めて感動してくれる人がいたことに、生徒の方も感謝の気持ちでいっぱいになったのです。

4/13「喫茶店事始め」

きょう4月13日は「喫茶店の日」。
明治21年のこの日、東京に日本初の喫茶店が開業したことに由来します。

店を開いたのは鄭永慶(ていえいけい)という、長崎で代々通訳を務める家系の人。
彼は14歳にして英語・フランス語・中国語をマスターし、16歳でアメリカのエール大学に留学します。
その同期生は金子堅太郎はじめ、帰国後に日本の政治・経済に大きな活躍をする者ばかり。
永慶もまた彼らに並ぶエリートでしたが、不運にも病気にかかり、大学を中途退学して帰国。エリートの道は閉ざされたのです。
そんな彼が喫茶店を開いたのは、当時の鹿鳴館が上流階級の社交場だったことに疑問を持ち、一般大衆が自由に訪れて欧米の文化に触れる社交場を作ろうと思ったからでした。

2階建て洋館の喫茶店にはビリヤードなどの遊具を置き、硯に筆、便箋や封筒も常備、国内外の新聞・雑誌や書籍を並べて閲覧できるようにしていました。
珈琲を飲ませて利益を得るためだけの店ではなかったのです。
むしろ欧米の文化を紹介したいという思いから、珈琲を飲まなくとも来店できるようにしていました。
そのため、客は来るものの売り上げは伸びず、あえなく4年で閉店。
しかし彼の思いを込めた店は、その後の日本の喫茶店文化の原点となったのです。

その店があった場所にはいま、鄭永慶を顕彰する「日本の喫茶店発祥の地」の碑が建っています。

4/6「ワインで給水」

1896年のきょう4月6日、ギリシャのアテネで第1回オリンピックが開かれました。
近代オリンピックの第一歩となった記念すべき大会ですが、新聞の公募で集まった選手は、欧米の14カ国から280人。
国の代表ではなく個人的な自由参加です。

最も注目を集めたのは、この大会から産まれた新しい競技・マラソンです。
優勝したのはギリシャ人のスピリドン・ルイス。
彼は小さな村で湧き水を桶に汲んで担ぎ、それを12キロ離れたアテネまで日に2往復運んでいた若者です。
そんな彼がマラソンに出場したのは、結婚に反対していた恋人の父親に自分のことを認めさせようという一心からでした。

誰もが経験したことのないマラソンで途中棄権者が続出する中、レース中盤で彼はなんと沿道のレストランに入って休憩。
そこでワインを一杯飲んで元気を回復し、前の選手たちをごぼう抜きにして優勝したのです。
その記録は2時間58分50秒。

一躍ギリシャ国民の英雄となったルイスに「何か褒美を」と言うギリシャ国王に、彼は荷車と馬を願い出ました。
それがあれば、歩いて水を運ぶ必要はありません。
そう、彼は二度とマラソンを走らず、元の水運びの生活に戻ったのです。

もちろん、恋人と結婚することができたのは言うまでもありません。

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