2014年5月アーカイブ

5/25「守られた約束」

福岡藩初代藩主、黒田長政の父、如水(じょすい)が官兵衛と呼ばれていた頃。
織田信長の天下統一のもとに働いていた官兵衛は、謀反を起こした荒木村重(あらき・むらしげ)を説得するため単身、城に乗り込みますが、捕えられ牢に幽閉されます。
そこは立つこともできない暗い穴倉のようなところで、官兵衛は日に日に衰えていきます。
過酷な環境の中で、長い牢獄生活を必死に耐える官兵衛を支えたのは、村重の家臣で牢の監視役だった加藤重徳(かとう・しげのり)でした。

発覚すれば命の危険もある中、密かに官兵衛を助け世話する重徳に深く感謝した官兵衛は「もし生きながらえて城を出ることがあれば、そなたの子をもらい受け我が子としたい」と約束したといわれます。

城が信長軍に攻め落とされ官兵衛が救出されたのは一年後のことでした。
戦国時代は生き残りをかけて嘘や騙し討ちは日常茶飯事でした。
しかし、官兵衛は約束を守り、重徳の二男を養子に迎えて息子長政の弟のように育てるのです。

これが後の黒田一成(くろだ・かずしげ)で、数々の戦場で見事に戦い、時には長政の影武者を務めるなど活躍して福岡藩の重臣となると、一成の家は代々藩の家老、大老を務めて存続し、明治時代には男爵に叙(じょ)せられています。

戦国時代に守られた約束は永い永い歴史を紡いだのです。

5/18「サミット子ども代表」

「環境と開発に関する国際連合会議」いわゆる地球サミットが開かれたのは1992年。
世界172カ国の政府とNGOの代表がブラジルのリオ・デ・ジャネイロに集いましたが、その最終日にスピーチしたのは、なんとカナダから来た12歳の少女セヴァンです。

彼女は9歳のときに訪れたアマゾンで開発のために熱帯雨林の森が破壊されていることにショックを受け、もっと地球の環境のことを知ろうと思い、学校の友だちと勉強会を結成します。
やがて地球サミットが開かれることを知った彼女は、「環境問題は私たち子どもの未来。ならば私たちがサミットに参加すべき」と決意。
自分たちで費用を集め、仲間とともにブラジルへ向かったのです。
しかし、サミットに勝手に参加することはできません。
セヴァンたちは会議場の近くで環境への思いを訴える活動を続けました。

そんな彼女たちのことを知ったのが、ユニセフの代表。
「子どもたちも会議に参加させるべきだ」とサミットの議長に働きかけました。
こうして彼女たちは子ども代表として急きょ会議に招かれたのです。

スピーチのためにセヴァンに与えられたのはわずか6分。
しかしながら、国家間の思惑が絡み合うサミットの場で 「地球環境を守ってください」という12歳の少女の率直で純粋な訴えは各国首脳に感動を呼び起こし、世界中に発信されました。

5/11「墓前の花束」

白いカーネーションの花束を抱えてバスに乗る俊子さん。
彼女の母は10年ほど前に他界しましたが、生前は花が大好きだった母を偲ぶため、毎年母の日には墓前に花束を手向けることにしているのです。

隣の席に乗り合わせた小さな女の子が、俊子さんの花束に気づいて「わぁ、奇麗!」と溜息をつき、目をきらきら輝かせて魅入られたようにみつめています。
「お嬢ちゃんは花が大好きなの?」と俊子さんが語りかけると、大きく頷く女の子。
その可愛い仕草を微笑ましく見ながら、俊子さんは何か考えごとをしている様子でした。

やがて俊子さんは或る停留所でバスを下車しますが、降りる間際、「はい。これおばちゃんからのプレゼントよ」と言って、女の子に花束を渡したのです。
大きく目を見開いて驚く女の子。
それが見る見る会心の笑顔になっていきました。

母の墓前に供える大切な花束を、見知らぬ女の子にあげてしまった俊子さん。彼女は思い出していました。
花が大好きだった母だけど、それ以上に好きだったのは人に花をあげたり送ったりすること。
「花を見て喜ぶ人の顔が大好き」と言っていたことを思い出したのです。

さっきのバスの中のことを報告すれば、きっと母は喜んでくれる――
そう思って俊子さんは手ぶらで墓地に向かいました。

5/4「おからの先生」

徳川幕府8代将軍・吉宗は、享保の改革を行った名君といわれていますが、その吉宗の指南役として活躍したのが儒学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)です。
さぞや名門のエリートという印象をもちますが、じつはそうではありません。

徂徠が育ったのは千葉の僻地の寒村。
学問を語り合う友もなく、父親の数少ない蔵書を繰り返し読んで教養を身につけました。
やがて独り立ちして江戸に出てきた徂徠は、長屋に小さな私塾を開きます。
でも、田舎出で無名の学者に月謝を払って入門する者などいません。
大変な貧乏暮らしですが、若い徂徠は気にせずに勉学に励みました。

それを見かねたのが、近所の豆腐屋夫婦。
「お腹の足しに」と、おからと豆腐を毎日のように届けます。
驚いた徂徠が「せっかくだが、支払うお金がありません」と断ろうとすると、「どうせ売れ残りだから」と言って置いていきます。
豆腐屋は、食うや食わずの中で学問に励む徂徠に感心し、少しでも助けてやろうと思ったのです。
おかげで徂徠はなんとか生き延びました。

やがて世に認められ士官が叶った徂徠がまず行なったのが、世話になった豆腐屋への恩返し。
少ない俸給の中から毎月3升の米を豆腐屋に届け続けたのです。
この実話を基にした落語があります。
『徂徠豆腐』・・・その中に登場する「おからの先生」と呼ばれる男こそ、荻生徂徠その人です。

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