2016年9月アーカイブ

2016年9月25日「越の国に光り輝く稲穂」

これから新米の季節ですが、今年還暦を迎えているのがブランド米の代表コシヒカリ。
その誕生には様々なドラマがありました。

ルーツとなる品種の開発が始まったのは戦前でしたが、開発途中のコシヒカリは、味は良いものの病気に弱く倒れやすいなど栽培が難しい劣等生でした。
しかし可能性を信じて奮闘したのが福井県農事試験場の石墨慶一郎氏で、幾度も苗を捨てようかと迷いながらも諦めずに改良に取り組み、全国の試験場に試作を依頼。

すると新潟県農業試験場の杉谷文之場長が「栽培法でカバーできる欠陥は致命的欠陥にあらず」と、魚沼など農家の人々と共に強い熱意で取り組み、職員の國武正彦氏は「鳥もまたいで通る」と酷評されたこともある新潟米を美味しくしたいと県の奨励品種にするため奔走するのです。

農林省新品種候補審査会では劣等生の品種登録に議論が紛糾しますが、ついに「農林100号」で登録が決定したのが昭和31年。
「越の国に光り輝く稲穂」となるよう願って「コシヒカリ」と命名されたのです。
名付け親の國武氏は、その後研究を重ね、コシヒカリは多くの地域で誰もが栽培できるブランド米となったのでした。

多くの人々の熱意と努力のリレーが、今日もどこかで美味しいひと椀のご飯となっているのです。

2016年9月18日「パスカルの恋」

「人間は考える葦である」という名言で有名なパスカル。
17世紀の偉大な哲学者、思想家ですが、それに留まらず、数学者として、自然物理学者として、また発明家としても数々の偉大な業績を残しています。
"不世出の天才"といわれたパスカルですが、研究に没頭した無理が祟ったのか、30代の若さで亡くなります。

パスカルの死後200年近く経って、フランス王立図書館の書庫からパスカルが書いた未発表の原稿が発見されました。
その題名は『恋愛の情念について』。
恋愛についての論文だったのです。

あのパスカルが恋愛論・・・? 
確かにその内容は恋愛の本質をさまざまな角度から分析して、パスカル独特のスタイルでまとめられたものでした。
ということは、パスカルは恋愛を研究した、つまりパスカル自身がだれかに恋をしたことがあったのか?
数学や物理学に没頭していたパスカルにそのような機会があったのか?
その点について学者たちが研究していますが、謎はまだ解明されていません。

原稿に書かれていたパスカルの恋愛論の一節を紹介します。
「人間は精神が豊かになればなるほどさまざまな美を発見する。
だが、恋をしてはならない。
恋をすると、ひとつの美しさしか見出せなくなる」。

2016年9月11日「旧石器時代の財宝」

旧石器時代の壁画で有名なラスコーの洞窟は、1940年9月12日にフランスで発見されました。
発見したのは考古学者ではなく、地元の村に住む4人の少年です。
この村には、昔この辺りを治めていた王様が城からトンネルを掘って財宝を隠したという言い伝えがありました。
少年たちはその伝説のトンネルを探そうと森の中を探検していたのです。

見つけたのは倒れた木の根っこから口を開けた穴。
中は真っ暗ですが、奥へ奥へと続いているようです。
「これは財宝のトンネルの入り口だ!」
興奮した少年たちはランプとロープを使って穴の底に入り、横穴を進んでいきました。
そこで目にしたのが、伝説の財宝ならぬ、遥かなる先祖が描いた芸術、ラスコーの壁画だったのです。

発見から8年後にラスコーの洞窟は一般公開され、発見した少年のジャックとマルセルの二人が公式の管理人兼ガイドに任命されています。

来年7月、九州国立博物館でラスコー洞窟の壁画を紹介する特別展が開かれます。それに寄せて、今年89歳になった発見少年の一人・シモンさんがこう語っています。
「当時13歳だった私は、躍動感あふれる動物たちの壁画を発見した興奮を今も忘れられません。人類が残した偉大な痕跡を、遠く離れた日本でも多くの人に見てもらえることを、発見者として誇りに思います」。

2016年9月4日「首相になったピアニスト」

「ピアノの詩人」と呼ばれるショパンを生んだポーランド。
そのショパンが世を去った11年後の1860年、ポーランドに二人目のピアノの巨匠が生まれました。
イグナツィ・ヤン・パデレフスキです。

20代半ばにウィーンでデビューしたパデレフスキは、その優れたテクニックと比類ない格調と気品に満ちた演奏で名声を博し、その人気はヨーロッパ各国、米国へと広がっていきました。
しかも世界各地での演奏旅行で得た収入を、第一次世界大戦に苦しむ祖国ポーランドを救済する基金などに当て、独立運動にも参加。
やがて政治家に転身し、1919年には独立ポーランドの首相と外務大臣を兼務します。
さらに1922年にはピアニストとして復活。
第二次世界大戦中は米国で演奏活動を行いながら、ポーランド亡命政府を支援しました。

音楽家として政治家として祖国のために活躍したパデレフスキは、演奏会でひとつのスタイルを貫きます。
当時は貴族のサロンで開く演奏会の名残りで、聴衆が演奏中に平気でお喋りをする習慣がありました。 それがどうにも我慢できません。
そこでパデレフスキは聴衆の中から私語が聞こえると即座に演奏を中断。
「お喋りが済むまで待っています」と客席に呼びかけました。

聴衆が演奏に集中するようになった現在のコンサートのスタイルは、パデレフスキが作り出したのです。

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