2017年3月アーカイブ

2017年3月26日「筆記具の文明開化」

小学校の入学準備に欠かせない文房具といえば鉛筆ですが、明治時代に新たな筆記具として鉛筆の生産と普及に力を注いだのが佐賀出身の眞崎仁六(まさきにろく)でした。

二十歳のときに明治を迎え、上京後、貿易商社に入社した眞崎は、明治11年にパリ万国博覧会で初めて鉛筆に出会って心を揺さぶられ「これを日本でも生産する」と決意したといわれます。

帰国後は、仕事の傍ら独学で製造方法を研究し、試行錯誤の末に鉛筆の芯の素材は鹿児島産の黒鉛と栃木の粘土、軸の木材は北海道のアララギが適していることを突き止め、また、製造機械の設計などにも苦心を重ねて、ついに9年後、眞崎鉛筆製造所を設立し国産鉛筆の製造を開始。

これが日本の鉛筆の工業生産の始まりといわれ、明治34年には当時の逓信省の「御用品」に採用されて全国の郵便局で鉛筆が使用されるようになったのでした。

これを記念して創られたのが、佐賀藩士だった眞崎家の家紋三つ鱗から考案された三菱の商標で、今日の三菱鉛筆へと受け継がれてゆくのです。

文明開化の明治時代に鉛筆の製造に取り組んだのは眞崎だけではありません。多くの人々の新たな時代への熱意と挑戦が、この春も多くの子供達が手にする筆記具、鉛筆の礎となったのです。

2017年3月19日「職工」ではなく「工場員」

大正3年3月20日、東京・上野公園で、東京大正博覧会が開催されました。
来場者の人気を集めたのは、日本初のエスカレーターやロープウェー、そして日本初の量産型国産自動車・ダット号です。
だれもが乗れる乗用車の開発にチャレンジしたのは、橋本増治郎。
若くして渡米し、蒸気機関車の製造工場で働いた経験を持つ技術者です。

橋本は建坪37坪に5台の工作機械を備えた、ささやかな町工場の会社を立ち上げて6名の工員を雇います。
このとき、米国で働いたことがある橋本は労働者の社会的地位の向上を願って、当時の日本での呼び名である「職工」「小僧」を改め、「工場員」と呼ぶことにしました。
また、当時の作業服だった草履と和服を替えて、作業の安全を考慮した革靴を支給。橋本の妻は6人の工員一人一人の背丈に合わせた作業服をミシンで縫い上げ、それに誇りと自覚を託して支給しています。

輸入車の組み立て販売や修理で糊口をしのぎながら国産自動車の研究試作を続け、2年後についにダット号の第1号車が完成。
橋本は涙を浮かべて6人の工員と喜びを分かち合いました。

自動車王国となった現在の日本。
ダット号もダット号を産んだ会社もこの世にありませんが、橋本増治郎の名は、国産自動車製造の先駆者として平成14年に日本自動車殿堂入りしています。

2017年3月12日「最後の引越し」

3月は進学や就職、転勤などを控えた引越しシーズン。
一方、世の中には必要もないのにやたら転居を繰り返す「引越し魔」と呼ばれる人がいます。
江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎もその一人。
89年の生涯で彼はなんと93回の転居を繰り返しています。

北斎は生活のすべてを絵を描くことのみに集中し、部屋が汚れたり荒れたりしてもほったらかし。掃除をする気がまったくありませんでした。
そしていよいよ足の踏み場がないほど住まいが荒れてくると、その家を見捨てて引越しをしていたのです。
彼は絵の道具以外は一切の家財道具を持たず、また現代と違って面倒な手続きもなく、身一つで気軽に引越しができたようです。

そうして93回も引越しを繰り返した北斎ですが、その93回目の引越しのとき、北斎はやって来た新居を見て愕然とします。
なんとそこは北斎が以前住んだことがある借家だったのです。
それだけではありません。
その借家の中に入ってみてさらにびっくり。
そこには以前彼が引き払ったそのときのまま、部屋が散らかり汚されていたのです。

それを見た北斎は初めて自分のしたことが恥ずかしくなり、もう転居しないことを決心し、以後はこまめに部屋の掃除をするようになったそうです。

2017年3月5日「ミスコン始末記」

きょう、3月5日は「ミスコンの日」。明治41年のこの日に日本で初めてミス・コンテストが行われました。

日本初のミスコンは、米国の新聞社の依頼で日本の新聞社・時事新報が主催した「ミス・ワールド・コンテスト」の日本予選。
全国に応募を呼びかけると7000名の写真が集まりました。
審査はこの写真選考のみで、彫刻家の高村光雲など、芸術・芸能分野の著名人13名が審査にあたりました。

その結果、ミス日本に選ばれたのは16歳の女学生、末広ヒロ子さん。
彼女の写真が時事新報を通じて全国に、米国の新聞でも紹介されました。
一躍時の人となったヒロ子さんですが、彼女自身は困惑するばかり。
じつはコンテストに応募したのは彼女ではなく、写真館を経営していた義理の兄が勝手に応募したのです。
さらに、コンテストのことを知った学校が「校風に添わない、端たないことをした」と、彼女を退学処分にしました。
すると今度は時事新報が「端たないとは何事か」と新聞2ページを費やして学校を非難。ほかの新聞社も追随して全国で彼女の退学処分が論じられていったのです。

この騒ぎにほとほと困惑した張本人のヒロ子さんは、コンテストの半年後に婚約者と結婚。
ミセスとなったことでミス・ワールド日本代表の資格を失い、騒ぎから離れることができたのです。

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