2018年5月アーカイブ

2018年5月26日「君の名を不滅に」

「人魚姫」や「マッチ売りの少女」など数々の名作が世界で愛読されるデンマークの童話作家アンデルセン。

実は貧しい家庭で育ったアンデルセンは充分な教育を受けられませんでした。
独力で道を開こうと、14歳で家を出ますが、貧しさは続き、時には死を覚悟するほどの挫折を繰り返します。

それでもアンデルセンは諦めず、出世作となる恋愛小説「即興詩人」を30歳で出版。反響を呼びました。
しかし、続けて出版した初の童話集は「才能ある作家が子供のおとぎ話など書いて」と批判を受けたのです。
当時、童話は文学としてはまだまだ認められていなかった時代でした。

ところが高名な物理学者でアンデルセンの支援者であり親友でもあったエルステッドは「即興詩人は君を有名にしたが、童話は君の名を不滅にするだろう」と励ましたと言われます。
アンデルセンはその後も童話を書き続け、70歳で亡くなった時、葬儀にはデンマークの皇太子から子供に至るまで多くの人々が詰めかけ別れを惜しみました。

世代を超え国境を越え、童話を愛される文学に育てたアンデルセン。
その業績を称えて誕生した国際アンデルセン賞は児童文学のノーベル賞と言われ、今年は「魔女の宅急便」の角野栄子さんが受賞しました。
アンデルセンの心は、これからも受け継がれてゆくのです。

2018年5月19日「音楽の数学」

日本ではあまり馴染みがありませんが、20世紀ドイツの作曲家の一人にハンス・アイスラーがいます。

彼は当時、前衛的な無調・12音技法という独特な手法で管弦楽曲などを発表しましたが、ユダヤ系であったことからナチスの迫害を受け、米国に亡命。
映画音楽の作曲に専念します。
その暮らしの中で、あの大科学者アインシュタインに数学を教えた人物としても知られています。

というのは...
ユダヤ系でナチスに迫害され米国に亡命という境遇が似ているアイスラーとアインシュタインを引き合わせようと、或る人が二人を自宅へ招待しました。
その家にやって来たアイスラーは控えの間でヴァイオリンケースを目にして、アインシュタインの趣味がヴァイオリンであることを思い出し、ピンときます。
「きょうは博士の伴奏をすることになるな」と直感したのです。

夕食後、やはりその通りになりました。
ヴァイオリンを手にした大科学者は複雑なリズムの曲の演奏に四苦八苦。
それを優しく見守りながらピアノで伴奏するアイスラーが指導します。
「博士、そこは4分の3拍子だから頭の中で三つ数えなくちゃだめですよ。
 ほら1、2、3。1、2、3」

それ以来、アイスラーはアインシュタインに数学を教えたことがあると自慢するようになったのです。

2018年5月12日「ガリバー、日本へ」

英国の船乗り、ウィリアム・アダムスが日本に漂着し、徳川家康に謁見したのは1600年のきょう、5月12日です。
数学や航海術など豊かな知識を備えたアダムスは家康の厚い信任を受けて徳川幕府の外交顧問となり、250石の領地を与えられ、三浦按針と名乗りました。
日本の歴史上唯一の外国人武士、青い目の侍となったのです。

日本ではアダムスはよく知られた存在ですが、彼は帰国することなく日本で55年の生涯を終えたので、英国で彼を知る人間はほとんどいません。
そんなアダムスのことを本にして広めたのは、作家のジョナサン・スウィストです。

代表作『ガリバー旅行記』は架空の国々を訪れる物語ですが、唯一実在の国が登場しています。それは日本。
「日本の東の港に着いたガリバーは江戸で日本の皇帝に拝謁した」と描かれているのです。
それはまさに、アダムスが家康と相見えたことから青い目の侍になる人生が始まった瞬間。旅行記を書くにあたってスウィフトは、アダムスが英国の妻に宛てた手紙に目を通して練り上げたそうです。

ガリバー旅行記になぜ日本が登場したのか。
スウィフトにとって鎖国政策で他国と交流がない未知の島国・日本は、アダムスからの手紙を通して、リリパット国やラピュタ王国と同じような、理想郷に近い国だと想像したのかもしれません。

2018年5月5日「女子マラソン誕生秘話」

陸上競技のマラソンは古代オリンピックからの長い歴史がありますが、女子マラソンとなるとじつは誕生してまだ50年足らず。
それまでは生理的に無理だとして女性のマラソンは禁止されていたのです。

1966年、一人の女性がマラソン大会に飛び入りで完走しますが、主催者は「同時刻に同じコースを走った通行人」として記録を認めませんでした。

その翌年、ボストンマラソンに当時20歳の女子学生だった、キャサリン・シュワイツァーが性別を隠してゼッケンを獲得し出場しました。
しかし10キロを過ぎた頃に大会役員が彼女を発見して取り押さえようとします。
これに対して、彼女と一緒に走っていた仲間の男子学生たちが逆に役員を羽交い締めにして取り押さえたのです。

こうして仲間に守られながらキャサリンは42.195キロを4時間20分で完走。この騒動が報道されたことで女性のマラソン参加への機運が高まり、5年後のボストンマラソンで女子の参加が認められ、1984年のロス五輪から女子マラソンが正式な種目になったのです。

女子マラソンの突破口を開いたキャサリンはその後、ニューヨークシティマラソンに出場して優勝。
そして去年、50年ぶりにボストンマラソンに出場した70歳のキャサリンは、4時間44分31秒で見事に完走を果たしています。

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