2019年2月アーカイブ

アフリカのサハラ砂漠にある国「モーリタニア・イスラム共和国」。
今でこそ日本人の大好きなタコの主要な輸出国ですが、実はタコを食べる習慣がないモーリタニアを輸出国に導いたのは日本人でした。

フランスから独立後、国土の85%が砂漠で国を支える産業も乏しく貧しかったモーリタニアでしたが、大西洋に面して広い海岸線を有していました。
そこで1977年、漁業支援のため、国際協力機構と海外漁業協力財団から指導員として派遣されたのが中村正明さんでした。
漁業の設備や技能を持たない国で、たった一人の取組みは、漁師に集まってもらうことさえ大変だったと言います。

試行錯誤の日々、中村さんは海岸の古タイヤに立派なマダコの姿を見て閃きます。タコ壺漁であれば大規模な設備も特別な技能も不要。
しかもこれまで食べていないからこそ、漁場にはタコが豊富にいるに違いない。
気味が悪くて敬遠されてきたタコの漁がいかに魅力的か、に半信半疑の漁師達を粘り強く説得。こうして始まったタコ壺漁は大漁となって大成功し、国の主要産業へと成長したのでした。

深く感謝したモーリタニアは中村さんに国家功労騎士勲章を授与。
その翌年に東日本大震災が起こったときには、多くの人々が「日本への恩返し」と言って義援金を手に日本大使館を訪れてくれました。
物理的な距離は遠くても心の距離は近い国。それがモーリタニアなのです。

2019年2月16日「船長の決断」

江戸時代の日本は鎖国で、長崎を除いて外国船の立ち入りを禁じていました。
その鎖国中に日本に米国の船が入港したことはあまり知られていません。
それはクーパー船長率いる捕鯨船マンハッタン号です。

マンハッタン号は太平洋で漁をしているときに、遭難して無人島に漂着していた11人の日本人漁師を発見。
彼らを救助した 翌日、さらに沈没しかけた漂流船に出会い、 乗っていた11人の日本人漁師も救助します。
.クーパー船長は漁を中断し、この22人を日本に送り届ける決断をしたのです。

船長は日本が 外国船を受け入れないことを知っていました。
近づけば陸から大砲を砲撃される危険もありました。
でも、クーパー船長は船乗りとして人道的な考えを優先したのです。
江戸湾に入ったマンハッタン号は日本側のたくさんの小舟に取り囲まれました。
でもそれは敵意ではなく、歓迎の小舟です。
マンハッタン号が日本にきた目的を知った幕府が特別に日本への入港を許したのです。
マンハッタン号はたくさんの小舟に曳航され、無事に浦賀へ到着。
クーパー船長は幕府からおおいに感謝され、充分な食糧や水、薪を与えられ、いろいろな贈り物ももらって日本を後にしました。

人道的行動によって、鎖国の日本と接触できたクーパー船長。
ペリーの黒船来航より8年前の出来事でした。

2019年2月9日「侍アイドル」

幕末にペリーが黒船で日本にやって来て開国を迫り、日米和親条約が結ばれました。
その後、日米通商条約をホワイトハウスで批准するために幕府の遣米使節団が太平洋を横断。日本が初めて米国を公式訪問したのです。

米国は使節団一行を国賓待遇で迎え、日本からやって来たサムライを一目見ようと、約50万人の市民がマンハッタンを埋め尽しました。
中でもアイドル的な人気を集めたのが、17歳の通訳・立石斧次郎です。

使節団一行がほとんど表情を顔に表さず威厳ある態度で米国民と接していたのに対して、立石は陽気で明るく、笑顔を絶やさずに人々とふれあい、おまけに英語が達者。
新聞の第一面に彼の全身写真とともに「日本人の陽気な男」というトップ記事が掲載されると、10代を中心に女性の心を掴み、彼が泊まるホテルには膨大なファンレターや花束が届けられたそうです。
ちなみに米国人が発音しやすいように、立石斧次郎ではなく「トミー」という愛称で紹介され、彼を讃える『トミー・ポルカ』という歌まで作られています。

じつは全米のアイドルになったこのサムライのことは日本ではずっと知られることはなかったのですが、昭和54年に『トミー・ポルカ』の楽譜が発見されたことから、立石斧次郎の存在が明らかになっています。

2019年2月2日「バスガイドことはじめ」

日本に初めて観光バスが走ったのは、東京でも京都でもありません。
それは大分県別府市。
別府で旅館を経営していた油屋熊八が昭和3年に大型バスを4台購入し、観光客を乗せて別府の地獄巡りを始めたのです。

その際に話題になったのは、16歳から19歳までの女子を募集してバスガイドに仕立て上げ、バスの中で観光案内をさせたこと。
それまでは考えもしなかった新しい観光のスタイルに人々は目を見張り、日本で初めてのバスガイドの声はレコードにもなりました。

ところが、この人気ぶりを快く思わない人たちがいました。
バスに客を奪われたタクシーの運転手たちです。
熊八の元に抗議に押し掛けた彼らは、バスの運行を止めるように迫ります。
しかし熊八はにっこり笑ってこう答えたのです。
「バスのおかげで別府が人気になったのだから、もう半年ほど待っていておくれ」

その言葉通り、観光バスとバスガイドの人気はその後もどんどん高まり、日本全国から観光客が別府に殺到。
熊八の観光バスはもちろん、タクシーも大忙しとなりました。
熊八は自分の商売ではなく、別府の町を盛り上げるために観光バスを走らせたのでした。

旅館の経営やバス事業だけではなく、別府の観光開発に尽力した油屋熊八はいま、別府観光の父として別府駅前に銅像となって笑顔を振りまいています。

アーカイブ