2019年4月アーカイブ

幕末の明君と称される越前福井藩の藩主 松平春嶽は、「私には優れた才能も知恵も特別な力もない、常に人々の言葉に耳を傾けよろしきところに従う」という謙虚な言葉を残していますが、
当時、脱藩浪士に過ぎなかった坂本龍馬が訪ねてくれば面会して話を聴き、幕臣の勝海舟に紹介して龍馬に活躍の糸口を与えるなど、未来に向けた種蒔きを幾重にも行った人物でした。

幕府の混迷期には政事総裁職を務めるなど時代の動乱の中にあって、春嶽が目指したのは、大名達がともに参画する議会制度の導入でした。
有能な人材を広く登用し、農民や町民からも議員を採用すべきという先進的、開明的な考えで、薩摩・長州藩と幕府との無益な武力衝突を回避しようと戊辰戦争開戦間際まで奮闘しています。

そんな春嶽が新政府の要職につき、岩倉具視から任されたのが新元号の選定でした。学者による複数の案から春嶽が選定した三案を籤にして上げ、天皇が自ら引いて「明治」と決定。
出典となった易経の「聖人君子が天下万民の声によく耳を傾ければ、世は明るく平和に治まる」という一節は、春嶽の残した言葉に重なるものが感じられます。

古来、人々の願いや希望が託されてきた元号。
間もなく私達の新たな時代が始まります。

2019年4月20日「ベルツ先生の大誤算」

きょう4月20日は郵政記念日。明治4年のこの日に郵便物の取扱いと切手の発行が始まったのです。
当時は鉄道も自動車もなかったので、江戸時代の飛脚と同様に手紙は郵便脚夫と呼ばれる人が自分の足で長距離を走って運んでいました。

この驚異的な体力に驚いたのが、明治政府の招きで来日していたベルツ。
明治の日本女性が水仕事の手荒れで苦しんでいるのを知って「ベルツ水」を処方したドイツの医者です。

長距離をやすやすと走る郵便脚夫や人力車夫の体力がどこからきているのか。
興味を持ったベルツが脚夫に食事の内容を聞くと、「玄米のおにぎりと梅干し、味噌・野菜」という答え。ベルツから見れば典型的な低蛋白・低脂肪の粗食です。
そこでベルツは、もっと栄養価が高い食事をすれば走る力がもっと高まるのでは、と考え実験をしてみました。
この脚夫に肉の料理を摂らせて毎日40kmの道のりを走らせ、そのタイムを計測。
すると脚夫はタイムが伸びるどころか、疲労が募って走れなくなり、3日目で「先生、どうか普段の食事に戻してほしい」と懇願。
仕方なくおにぎりと梅干しに戻したところ、また走れるようになりました。

ベルツ先生の思惑はみごとに大外れ。欧米人から見れば粗食と見える日本の伝統食が、じつは日本人の体力を育てる源だったことを確信したのです。

2019年4月13日「遅刻作戦」

400年ほど前の慶長17年4月13日、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が巌流島で行われました。

この二人の決闘といえば、武蔵の遅刻作戦がよく知られています。
小次郎を苛立たせるため、わざと約束の時間に遅れて島に到着する武蔵。
「遅いぞ武蔵!」と叫びながら刀を抜いて鞘を投げ捨てた小次郎に向かって武蔵が「小次郎、破れたり!勝つ者がなぜ鞘を捨てるか!」と切り返した件です。

でもじつは、武蔵がわざと遅れてやってきた話は史実ではないようです。
この決闘は当時の細川藩が主催し、立ち合いの藩士が見守る中でのこと。その記録には武蔵が遅れてやって来たことは何も記されていません。
おそらく後の歌舞伎でこの逸話を創作したのだろうといわれています。
が、たとえそうだとしても、武蔵の遅刻作戦はいかにも敵をよく知って、戦う前に心理戦で戦う優れた武術家らしいと、人々の中で伝説として定着していったのです。

現在、巌流島には武蔵と小次郎の二人の銅像が向かい合っていますが、小次郎の像は平成14年に建立され、武蔵の像は伝説をなぞるように1年遅れの平成15年に建立。
その除幕式にはドラマで武蔵と小次郎を演じた俳優が招待されましたが、武蔵を演じた俳優は除幕式に30分ほど遅刻しました。
やはり遅れて登場してこその武蔵なのです。

2019年4月6日「日本最古のソメイヨシノ」

きょう4月6日は「しろの日」。
兵庫県姫路市が、日本三大名城の一つ姫路城を中心とした市の復興のために制定しました。

姫路城は、鎌倉時代の終わりに築かれ、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉などの大名が城を拡張し、現在の形になったのは江戸時代。
五層六階の大天守と三つの小天守があり、その形から白鷺城とも呼ばれ、昭和26年に国宝に、平成5年には奈良の法隆寺とともに日本で初の世界文化遺産に指定されました。

しかし、姫路城にはかつて存亡の危機がありました。
それは明治維新。
幕府が倒れて新政府が発足すると、藩の役所として存在していた城は無用の長物。明治政府は各地の城を取り壊すことにしたのです。
姫路城も一旦民間に払い下げられた後解体されることになりましたが、そこに「姫路城のすばらしさを後世に残すべきだ」と立ち上がった人がいます。
当時、陸軍省の役人だった中村重遠大佐。
彼は全国の城を視察する中で、特に姫路城と名古屋城の文化的価値を認め、ときの陸軍大臣・山縣有朋を通じて政府に粘り強く城の永久保存を訴えたのです。
その結果、姫路城と名古屋城は保存が決まりました。

世界文化遺産となって世界中から観光客が訪れる姫路城。
城内の菱の門近くには中村重遠大佐の顕彰碑が建ち、姫路城の恩人として称えられています。

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