2019年5月アーカイブ

2019年5月25日「お滝の恋文」

江戸末期、長崎に鳴滝塾を開校した、日本近代医学の父・シーボルト。
その日本人妻のお滝がシーボルトに送った手紙が昨年、オランダのライデン大学で発見されました。

長崎出島のオランダ商館の医師であったシーボルトは滝を妻に迎え、イネという娘を授かりましたが、日本地図を、禁止されていた国外に持ち出そうとして発覚し国外追放となるのです。
愛する妻と、まだ2歳であった愛娘との悲しい別れでした。

発見された滝の手紙は「三度の御手紙相届き」という書き出しで始まっています。
シーボルトがオランダに向う船旅の途上で書いた3通の手紙は、妻や娘から遠ざかっていくことを悲しむように立て続けに書かれていました。
滝の返信も「この手紙をあなたと思って忘れることはありません」
「おいねは毎日、あなたのことばかり尋ねます。私もあなたへの思いを焦がしています」と夫への想いが切々と書き綴られています。

シーボルトは帰国後、日本で収集した紫陽花を「ハイドランジア・オタクサ」と命名してヨーロッパ社会に紹介しました。
花の名に「お滝さん」を忍ばせたシーボルト。
淡く優しい姿の紫陽花にお滝の面影を重ね見たのでしょうか。
紫陽花の季節を迎えると、シーボルトとお滝の恋物語が思い起こされます。

2019年5月18日「ビールでドロンケン」

明治2年のきょう5月18日、徳川幕府最後の幕臣・榎本武揚が最後の拠点・函館の五稜郭を開城して維新政府軍に無条件降伏。
戊辰戦争が終結しました。

独立国家建設という榎本の夢は打ち破られ、東京に送られて投獄されます。
国家に反逆したということで、榎本は死刑を覚悟しました。
が、獄中の彼の暮らしは淡々としたもので、洋書などの差し入れを受けて読書に勤しみ、本の執筆をしたり、同じ牢内の少年に漢学や洋学を教えたりしています。
いっぽう政府内では榎本の才覚を高く評価した上で恩赦を決定。
獄中生活はわずか2年半でした。

釈放されることを知った榎本は獄中にビールを差し入れてもらっています。
釈放の前祝いとしてビールを飲んだ彼は、差し入れの礼状にこう記しています。
「夕食のときに差し入れくださった麦酒をたっぷり飲み、気分はうきうきです。
少々ドロンケンのため、乱筆をお許しください」
ドロンケンとはオランダ語で「酔っている」という意味。

榎本はかつて幕府に派遣されオランダに留学していたのです。
文面から相当にビールがお好きな様子が伺える榎本。
じつはオランダ留学から帰国するために艦長として乗り込んだ船・開陽丸には大量のビールが積み込まれていたそうです。
どうやら彼は3年間のオランダ暮らしで「ビールでドロンケン」の楽しさを知ったようです。

2019年5月11日「喜劇王が見た鵜飼い」

水鳥の鵜を使って鮎を獲る伝統的な漁法...鵜飼い。若葉の季節になると全国12の河川で鵜飼いが始まります。
きょう5月11日に始まるのは岐阜の長良川鵜飼い。
1300年以上の歴史をもち、伝統装束に身を包んだ鵜匠が篝火を使って鵜を操る漁法は国の重要有形民族文化財に指定され、唯一の皇室御用の鵜飼いです。

83年前の昭和11年、長良川鵜飼いを見て大絶賛した外国人がいます。
その人の名はチャールズ・チャップリン。世界の喜劇王です。
昭和7年に初来日したチャップリンは日本文化を大いに気に入り、4年後に再び来日。結婚したばかりの妻とともに京都見物の帰りに長良川鵜飼いを見物したのです。

そのときの思い出を彼は次のように語っています。
「夜の闇が美しかった。真っ暗な川上から6艘の鵜舟が次々に下ってきた。
明るい幻想的な篝火でひとつ、ふたつ...と鵜舟を数えることができたのだ。
聞こえるのは川のせせらぎと鵜を操る鵜匠の『ほうほう』というかけ声。
鵜飼いは光と闇が織りなす一遍の詩であり、鵜匠は詩人だった」

このチャップリンが語った鵜飼いの世界観は、図らずも、松尾芭蕉が詠んだ俳句に通じています。
「面白うてやがて哀しき鵜舟かな」
初めて鵜飼いを見物したその日に、チャップリンは見事に日本のワビサビを感じ取ったのでした。

2019年5月4日「思い出のビー玉」

きょう5月4日は「みどりの日」ですが、「ラムネの日」という記念日でもあります。
ラムネとは、ビー玉で栓をした瓶入りの炭酸飲料。
明治5年のこの日に日本で初めてラムネが製造販売されたのです。

ところでラムネ瓶の栓に使われるビー玉。その名前の由来は何でしょう。
昔はガラスのことをポルトガル語で「ビードロ」と呼んでいました。だからガラスの玉は「ビードロの玉」。
それが「ビー玉」に変化していったという説が一般的です。

ところが別の説もあります。
当時のガラス玉の製造技術はまだ拙く、玉のサイズがまちまちでラムネ瓶の栓として使えない不良品も大量に発生。
この不良品をどうしたものか?捨てるにはもったいない。
そこで大阪の商人が考え出したのは、子どものおもちゃとして売ること。
ラムネ瓶に使えるガラス玉をアルファベットのAを使って「A玉」とし、規格外の玉をアルファベットのBを使って「B玉」と名付け、全国の駄菓子屋に売り込んだのです。
眺めているだけで楽しくなる透明で美しいビー玉は、子どもたちの心を鷲掴み。
昭和時代には全国各地の公園や路地裏でビー玉遊びに興じる元気な子どもたちの姿が見られました。

新元号が始まったいま、ビー玉はまだまだ子どもたちの大切な宝になっているのでしょうか...。
明日5日は、令和になって初めての子供の日でもあります。

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