2020年2月アーカイブ

2020年2月29日「ウイルスとの闘い」

古くから繰り返し猛威を振るい恐れられたウイルスによる伝染病・天然痘。
WHOは1980年に世界根絶宣言を行いましたが、その貴重な一歩となったのがイギリスの医師エドワード・ジェンナーによる種痘という予防接種の発明でした。

ジェンナーは牛に発生する伝染病・牛痘に感染した人間は天然痘にかからないことを農村の人々から学び、牛痘を発病した患者の水ぶくれから液体を採取して、それを少年に接種。
これが世界最初のワクチン・種痘の発明であり、予防医学、免疫学へ道を開くことになるのです。

ところが、ジェンナーの研究論文は評価されず、医師の理解を得ることも、ましてや一般の人々からも「種痘を受けると牛になる」と怖がられるなど、偏見や誤解を乗り越えての普及には大変な苦労がありました。
そんな中、種痘の効果は次第に認められ世界へ広まっていったのです。

実はジェンナーは種痘法の特許の取得を行いませんでした。
特許を取るとワクチンが高価なものとなって、多くの人命を救えないと考えたのです。
その後、ジェンナーが論文の中で予言していた天然痘の根絶は現実のものとなりました。

種痘の発明から200年を経た今、新たなウイルスとの闘いは、ジェンナーが開いた免疫学とともに続けられています。

2020年2月22日「柔道の伝道者」

『怪談』の作者としてよく知られる小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが日本に来たのは明治23年。
英語教師として島根県松江の尋常中学校に赴任します。
ハーンの授業ぶりは大評判となり、その名は日本中に広がっていきました。

そんな彼を英文学講師として引き抜いたのが熊本の旧制第五高校。
熊本駅に降り立ったハーンを出迎えたのは、校長を務めていた嘉納治五郎です。

柔道の創始者として知られる嘉納ですが、優れた教育家でもありました。
嘉納に出会ったハーンは瞬く間に嘉納の人柄に魅せられてしまいます。
嘉納が学生たちを相手に指導していた柔道場に足を運んで見学し、嘉納本人からもいろいろな話を聞くうちに、ますます嘉納を敬愛していきました。

とりわけ、嘉納の説く柔道の本質が、相手の力を利用して勝つ、すなわち逆らわずして勝つことに大いに感銘を受け、ついには『柔術』というタイトルでエッセイを書き、その作品を収めた本が欧米で出版。
ニューヨークやロンドンで版が重ねられ、多くの人に読まれるようになり、嘉納が主宰する講道館へ外国の政治家や外交官、教育学者などが次々に見学に訪れました。

やがて柔道は国際的なスポーツへと発展。
オリンピックで正式競技となるまでの道のりの礎には、ラフカディオ・ハーンの存在があるのです。

2020年2月15日「江戸時代の観劇」

日本の伝統芸能のひとつ、歌舞伎。
江戸・寛永年間に初代 猿若勘三郎が江戸で初めてとなる常設の芝居小屋「猿若座」を造りますが、江戸時代の歌舞伎は現代とはずいぶん違ったものでした。

まず芝居小屋では火事を恐れて蝋燭1本たりとも使わず、興行は自然光がある昼間だけ。朝6時から始まり、夕方5時まで続く1回興行だったのです。
またエアコンなどない夏の芝居小屋は大勢の観客がひしめき合う蒸し地獄。
そこで人気を博したのは本物の水を使った「本水」という出し物で、役者が豪快に動けば客席にもばしゃばしゃ水が飛んできて、やんやの喝采です。

そして何よりも現代と違うのは、歌舞伎を見る観客たち。
何しろ夜明けから日が暮れるまで長丁場の歌舞伎を静かに黙って見続けることはできません。
後ろを向いて知り合いとお喋りをしたり、食事をしたり酒を酌み交わしたり、芝居をろくに見ていない人もたくさんいたのです。
さらに当時は拍手という習慣がなく、その代わりに大声で役者を応援したり、芝居がひどければ罵声も浴びせていました。

舞台に立つ役者にとっては失礼なことですが、そんなうるさい客席を黙らせて振り向かせるだけの力が必要だったからこそ、歌舞伎の演出や演技力は磨かれていったのです。

2020年2月8日「大序曲1812年」

バレエ音楽『白鳥の湖』や『くるみ割人形』などで知られるチャイコフスキー。
彼の作品の中に、ナポレオン率いるフランス軍とロシアの戦いを描いた『大序曲1812年』があります。

この曲は楽譜出版社から依頼され1880年に作ったもの。
当初は「戦いを題材にした曲はただ騒がしいだけの音楽になるのは目に見えている」と気乗りしないチャイコフスキーでしたが、「どうせ騒がしい曲を作るのなら」と、曲のクライマックスにとんでもない仕掛けを施しました。
それは大砲。
楽器として本物の大砲を撃ち鳴らすというパートを作ったのです。

果たして『大序曲1812年』の初演で本物の大砲を使ったかどうかは諸説あり、はっきりしていませんが、『大序曲1812年』は現代も人気の作品で、大砲のパートは大太鼓を叩いたり、録音した大砲の音を流したりして演奏されています。

平成19年のある日、陸上自衛隊の音楽隊が演習場で屋外コンサートを開き、『大序曲1812年』を披露しました。
協力したのは砲兵部隊。本物の大砲の出番です。
しかし、クライマックスでタイミングよく空砲を撃ったのはいいのですが、その音があまりにも大きく、演奏者や聴衆の耳が麻痺して演奏は中断。
それでも彼らは毎年のように『大序曲1812年』を演奏し会場を沸かせています。
ちょっと小さめの大砲を使って。

明治28年のきょう2月1日、日本初の路面電車が誕生しました。
それは東京ではなく京都。
京都に琵琶湖疎水を利用した日本初の水力発電所が出来たからです。

路面電車の動力は琵琶湖疎水の水力発電。
開業当初は天候によって水の流れが落ちるとたちまちスピードが落ちたり停まってしまったりします。
「なんや、こんなん歩いた方が早いがな」と乗客が文句を言うと「早いか遅いかは電気に聞いてぇな」とやり返す運転士。なんとものんびりした光景です。

また当時はきちんとした交通ルールがありません。
「先走り」と呼ばれる少年が電車に乗り、人通りが多い街角に差しかかると、昼は旗、夜は提灯を持って電車の10m先を走りながら「電車が来まっせ!危のうおまっせ!」と叫びながら人除けをしていたそうです。
そんな歴史も秘めながら、京都の路面電車は市民や観光客に愛されていきました。

しかし日本が高度経済成長時代を迎え、自動車の数が急増し各地で交通渋滞を引き起こすと、路面電車が邪魔者扱いされ、昭和53年、京都の路面電車は全面廃止されました。

それから42年経った現在。
海外からの観光人気で再び渋滞が深刻となった京都では、自動車の乗り入れを抑制して路面電車を復活させる議論が起こっています。
懐かしい光景が蘇る日がくるかもしれません。

アーカイブ