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MORNING JAM

問題です!

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2020-10-13(火)

「ワンワン」と鳴くのに、犬じゃない。

人には懐かない動物。

何でしょう?

答え:シマウマ

シマウマは見た目はウマに似ているが、ロバに近い生き物。
「ヒヒーン」とは鳴かず、「ワンワン」と、犬のような鳴き声で鳴く。
シマウマは神経質で、人に懐かない。
ウマは、アフリカではツェツェバエに刺され、眠り病にかかるため、シマウマの家畜化がこれまで何度も試されたが、騎乗や運搬に成功したことはほとんどない。
縞模様は、「天敵からわかりづらくするため」「白と黒の温度差で、体温調節する」などの説があったが、今はどちらも否定されている。
ツェツェバエが縞模様を避けるから、というのが、今の有力な説。

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2020-10-12(月)

江戸時代は「はなはだ下品なり」と言われ、

灯りをともす油の代用品として使われていました。

武士も、その形から食べるのを嫌っていました。

何でしょう?

答え:サンマ

本来なら秋の食卓をにぎわせる「サンマ」。
本格的なサンマ漁が始まったのは1700年ごろだが、
江戸時代後までは、格の低い魚として扱われていた。 
江戸時代の料理本には、脂が多かったこともあり、
「はなはだ下品なり」「魚中の下魚である」と書かれていた。
また、形が刀に似ていることもあり、武士は口にするのを嫌がった。

当時はロウソクや燈油が高価で庶民にはなかなか手が出なかったため、
代用品としてさんまの脂を集めて明かりを灯していた。
しかし次第に「サンマが出ると按摩が引っ込む」ということわざができるほど
サンマの栄養価の高さは評判になり、
広く庶民に親しまれる食材へと変わっていった。

意外にもその生態には謎が多いといわれているサンマ。
ちなみに・・・寿命は約2年。
イワシは最長8年、サバは11年、ということを考えるとかなり短い。
寿命が2年と短いということは、サンマの資源は2年で完全に世代が交代する。
毎年どれくらいの数のサンマが育つかによって、
その資源量が大きく変化することを意味する。
少子化の影響が寿命が短いサンマでは翌年には深刻な問題となるし、
今年たくさんサンマが獲れたとしても、2年後にはどうなるかはまったくわからない。
サンマ資源の量を正確に把握するためには、毎年の資源量調査が欠かせない。

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2020-10-09(金)

木にぶら下げてたはずの

道具がなくなって、不機嫌なこうじくん。

なくなった道具って、なーんだ?



(原案:T&Yなぞなぞサイト)

答え:くわ(鍬)

「木にくわなかった」のが
「気にくわなかった」。。。

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2020-10-08(木)

クイズ!古事記

神々の暮らす高天原を統治していた

太陽神アマテラスと、

海を治めていた弟のスサノオ 。

いたずら好きのスサノオが、

高天原に遊びに行った時、

神殿にあるものをばら撒いて皆んなを困らせました。

何をばら撒いたでしょう?

A .うんこ

『古事記』は日本に現存する最古の書物(作品)。序文と上・中・下の3巻からなり、世界のはじまりから神々の出現、そして天皇家の皇位継承の様子が描かれている。
天界で沢山生まれた神々の末っ子、イザナギとイザナミ。この2人が数々の島や神を生み落としたことで日本が生まれる。
その後、イザナギが黄泉の国(死者の国)から帰ってきて、黄泉の国のケガレ(穢れ)を落とそうと禊をしたら生まれた神が、アマテラス・ツキヨミ・スサノオ。三貴神と呼ばれ、日本神話の中心的神。

ある日、海を治めていたスサノオが高天原へやってきました。
アマテラスはスサノオが攻めて来たと勘違いして、「あんた海はどうしたのよ!」と問い詰めますが、スサノオは「ママ(イザナミ)に会いに根の国に行くから挨拶に来ただけだってば~。」と敵意がないことをアピール。
しかし、挨拶回りの最中、生粋のいたずら好きであるスサノオは調子に乗って宮殿に排泄物を投げ入れたり、田畑を荒らしたりとやりたい放題。
初めこそ大目に見ていたアマテラスですが、お手伝いさんがスサノオのいたずらによって死んでしまい、ついに堪忍袋の緒が切れる。
怒ったアマテラスは、「隠居してやる!」と高天原の奥にある天の岩戸に身を隠し、入り口を封鎖してしまう。
アマテラスは太陽神なので、洞窟に閉じこもってしまうと世界は真っ暗。
つづく・・・

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2020-10-07(水)

クイズ!早すぎた男

エンドウ豆の研究で、遺伝の法則を発見した

オーストリアの科学者、メンデル。

彼ははじめ、ネズミで遺伝の研究を行っていましたが、

周囲の反対によって、ネズミが全て処分されてしまいます。

反対派がいる中で、遺伝の研究を続けた

メンデルの、元々の職業は何だったでしょう?

答え:司祭(キリスト教の聖職者)

メンデル(1822-1884)は、エンドウ豆の研究で、1865年に
遺伝の法則(メンデルの法則)を発表。

元々はキリスト教の司祭で、宿舎でネズミを
飼うことが許されていたことから、ネズミを交配させて
遺伝についての研究を行っていた。

しかし、聖職者の中には、当時はまだ、科学の研究は
不謹慎と考えるものがいて、ネズミが処分されてしまう。
そこでメンデルは、修道院で栽培していたエンドウ豆に
目をつけ、遺伝の法則の研究ををこっそり行った。

メンデルは後に、「植物にも性生活があることを
ご存じないようだ」と皮肉っている。

・メンデルの法則は1865年に発表されたが、
 キリスト教内だけでなく、世界的にも早すぎた研究で、
 当時は誰にも理解されなかった。

・研究が評価されたのは、メンデルの死後。1900年のこと。
 この年、オランダ、ドイツ、オーストリアの3人の科学者が
 それぞれ全く違う研究で、メンデルの研究の重要性に気付く。
 3人がそれぞれ、メンデルの正しさを訴え、にわかに脚光を浴びることになった。

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2020-10-06(火)

なぞなぞではありません。

「お年寄りのタマタマ」

に例えられる、「泡」って

なーんだ?

答え:カマキリの卵

カマキリが秋になると木の枝などに産みつける泡状の卵。
ひとかたまりの泡の中に、200個ほどの卵が入っている。
中に空気を含んでいて、冬の寒さからも卵を守ることができて、春になると、幼虫がゾロゾロと出てくる。
別名は「螵蛸(おおじがふぐり)」,「老人の睾丸」の意味。(もちろん、その形から名付けられた)
漢方薬として珍重される。

・カマキリは交尾の際、メスがオスを食べると言われるが、実際に食べる割合は、20%程度。
ただ、オスを食べたメスは、通常の2倍の数の卵を産む。(食べられなかったオスは、新たなメスとの交尾に向かう)

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2020-10-05(月)

「ニセ」や「モドキ」は香りがありませんが、
「バカ」の香りは本物以上。味もそっくりです。
これ、何でしょう?

答え:マツタケ

秋、日本人の心を躍らせる高級食材「マツタケ」。
今年7月には国際自然保護連合(IUCN)が、絶滅危惧種に指定したことも話題になった。
そんなマツタケに似た、「ニセマツタケ」、「マツタケモドキ」、
そして「バカマツタケ」というきのこが国内に生えている。
いずれも本物のマツタケとよく似た形で、素人目にはなかなか判別が困難。
「ニセマツタケ」と「マツタケモドキ」は、まったく特有の「マツタケ臭」がしない。
一方「バカマツタケ」は味や香りも本家のマツタケ以上よりも強いくらい。
ただし、赤松などの針葉樹に生えるマツタケと異なり、
カシやナラなどの広葉樹の下に発生する。
そんな香りも味もそっくりの「バカマツタケ」。
2018年、肥料・化学品のメーカー「多木化学」が「バカマツタケ」の
完全な人工栽培に成功したと発表。
マツタケがいまだに人工栽培できていない中、
バカマツタケが人工的に量産できれば、
ほぼ同じ味わいを季節と関係なく楽しめる日が訪れる、かもしれない。

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2020-10-02(金)

初めて、その食べ物を日本に紹介したのは、福沢諭吉。

初めて食べた日本人は、

後に九州帝国大学の初代総長となる、

当時はまだ、16歳の少年だった山川健次郎。

この食べ物、何でしょう?

(初めて食べたのは、岩倉具視という説もあり)

答え:カレー

・日本で最初に、カレーという食べ物を紹介したのは、
 福沢諭吉で、1861年のこと。
 これは、英語の辞書を日本語に翻訳する中の
 言葉として出てきたもの。
 なので、食べたわけではない。

・初めて食べた日本人は、諸説あるが、
 1870年に、国費留学生としてアメリカへ渡った、
 山川健次郎といわれている。
 会津出身、当時16歳で、アメリカへ向かう船の中で、
 カレーライスと出会った。(食べたかどうかまでは、はっきりした記録がない)
 山川健次郎は、東大総長、京大総長、九大初代総長、
 九工大総裁などを歴任した人物。

・1871年から73年にかけ、アメリカ、ヨーロッパを歴訪した。
 岩倉具視率いる岩倉使節団が、途中立ち寄った
 セイロン(スリランカ)でカレーを食べたという記録がある。
 この使節団は他に、伊藤博文や木戸孝允(桂小五郎)、小久保利通もいた。

・ただ、記録にないだけで、16世紀末に、キリシタン大名がローマへ送った
 使節団が経由地のインドで食べた可能性はある。

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2020-10-01(木)

海辺から、遠くに見える水平線。

あの水平線までの距離は、何キロでしょう?

ただし、目の高さは2mで、

地球は、半径6000キロの球体とします。

小数点以下は、四捨五入。1の位までお答え下さい。

答え:5km

中学3年で習う「三平方の定理」で解ける問題。
〈三平方の定理〉
直角三角形の直角をはさむ辺をaとb、斜めの辺をcとするとき、
a²+b²=c²

人から、水平線までの距離をa、
地球の半径6000kmをbの辺の直角三角形とすると、
地球の半径+人の目の高さ6000km2m=6000.002kmが、斜めの辺cになる。

6000.002の2乗-6000の2乗≒24
2乗して24になる数(つまり√24)=4.89…
よって、およそ5km。

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2020-09-30(水)

クイズ!早すぎた男

ライト兄弟が飛行機を発明するより前、

1895年に、ロケットで宇宙へ行く、という構想を発表した

ロシアの科学者、ツィオルコフスキー。

彼が、ロケットを思いつく前に、宇宙へ行く

方法としてヒントを得た、建物があります。

何でしょう?

答え:エッフェル塔(のエレベーター)

コンスタンチン・ツィオルコフスキー(1857-1935)は
ロシアの科学者でSF作家。
ロケットで宇宙へ行く構想と、理論を生んだ「宇宙旅行の父」。

1895年にSF作品『地球と空への夢』を発表。液体燃料を使った
      ロケットを考案。
1897年にロケットの燃料と速度の関係を表した
      「ツィオルコフスキーの公式」を発表。
1903年にロケット理論をまとめ、後世にも大きな影響を与えた
      論文を発表。

このようなロケット理論を発表する前に彼が思いついたのは
宇宙へ行く「エレベーター」。
エッフェル塔を初めて見た時に、宇宙までの高さのエレベーターを
作れば、宇宙に行けると考えた。
(ちなみに、「宇宙エレベーター」は、今も研究が行われている。)

これだけの研究を行ったツィオルコフスキーだが、
当時の帝政ロシアは農業国。全く日の目を見ることはなかった。
転機が訪れたのは1917年のロシア革命。
ソ連が工業化を推し進めるようになり、注目されるようになる。
大戦後、ソ連がロケット開発でリードしたのは、
彼のノウハウがあったことが大きい。

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