2013年6月アーカイブ

戦場で自らの命を盾にして患者を守りぬいた医師がいます。
その人の名は高松凌雲(たかまつ・りょううん)。

明治元年の北海道で、榎本武揚(えのもと・たけあき)率いる旧幕府軍が五稜郭(ごりょうかく)に立てこもって明治新政府軍と戦った函館戦争がおこります。
幕臣だった凌雲は、この戦いに加わると函館病院の院長に就任し、兵士達の治療にあたりますが、そこへ政府軍の瀕死の兵士が運び込まれるのです。

殺気立つ幕府軍の兵士、動揺する医師達。
しかし凌雲は毅然とした態度で敵兵を受け入れ、分け隔てなく治療したのです。また、病院に政府軍が乱入した際には
「ここにいるのは、今は病床にある負傷者だ。どうか助けて欲しい」と訴え、幕府軍の兵士を守り貫きました。
これが、日本で初めての赤十字精神に通じる人道的な医療活動であったといわれます。

戦争終結後、凌雲は明治政府の誘いも断り、東京で医院を開くと、医師仲間に呼び掛けて「同愛社(どうあいしゃ)」を創設し、貧しい人々を無料で治療する慈善診療所を多数開設するなど、高い志を全うしました。

実は、凌雲の故郷(ふるさと)は福岡県小郡市(おごおりし)の古飯(ふるえ)地区で、今も凌雲を偲んで生誕祭が開かれるなど、その博愛精神は、地元の人々の間でも大切に語り継がれています。

6/23「70年ぶりの金メダル」

1912年のストックホルム五輪。
全米代表のジム・ソープは、陸上の10種競技と5種競技で優勝した金メダリストです。
ところが翌年、「競技で賞金を得た者はオリンピックに参加できない」というアマチュア規定が突然厳しくなり、それが過去にも適用されて、彼はメダルを剥奪されてしまいます。

苦学生だったソープは、生活費と学費をかせぐために夏休みに片田舎のセミプロ野球チームで2、3度プレイし、
報酬を得ていたことがありました。
実は、当時の学生選手たちはこのようなアルバイトをするケースが多々あり、その場合は偽名を使って形式上は別の人間だということにしていたのですが、ソープはこのような本音と建前の使い分けができず本名を通していたのです。

メダルを剥奪されたソープは、その悔しさを紛らわすように、その後プロ野球やフットボールの選手として活躍。
一方、彼の実直な人柄とアスリートとしての才能を惜しむ人たちは、ソープ復権への運動を根気よく続けました。

IOCがソープの権利回復を承認したのは1982年。
五輪憲章からアマチュア規定が削除され、プロ選手の参加が広がっていました。 70年ぶりに戻った金メダルは、その30年前にこの世を去ったジム・ソープの墓前に捧げられたのです。

6/16「『父の日』の父」

19世紀半ばのアメリカ合衆国。
風が吹き渡る大草原に一軒の丸太小屋がありました。
西部開拓者ウイリアム・スマートとその妻、そして6人の幼い子どもたちの一家です。

その頃、南北戦争が勃発し、一家の大黒柱ウイリアムは北軍に招集。
夫の留守中は妻が女手ひとつで働きながら、子どもたちを育てました。
4年後、戦争が北軍の勝利で終わると、ウイリアムは無事に復員。
再び家族8人の幸せな暮らしが始まるかに思えました。
しかし、夫の留守を一人で支えてきた妻はすっかり体を壊してしまい、まもなく亡くなってしまいます。

悲しみに暮れる一家。
でも泣いてばかりはいられません。
ここからウイリアムには、父親として6人の子どもたちを男手一つで育てるという苦闘が始まります。
彼は生涯再婚することもなく、働きながら献身的に6人の子どもを育てました。
そして、子ども全員が成人すると、それを見届けるかのように亡くなったのです。

そんな父を心から愛し尊敬していた娘のソノラは、家族を幸福にするために自己犠牲をいとわない父親に感謝して祝う日を、合衆国として設けるように嘆願しました。
これをきっかけに1916年、時の大統領の認可によって誕生したのが、"父の日"なのです。

6/9「黒い瞳の伯爵夫人」

明治時代、東京に赴任していたオーストリア・ハンガリー帝国の駐日代理公使・クーデンホーフ伯爵が馬で移動中に落馬したとき、通りがかった一人の町娘が駆け寄って手当てを施しました。

彼女の名前は青山光子。
このことがきっかけでクーデンホーフ伯爵と光子は恋に落ち、やがて周囲の猛反対を押し切って結婚。
日本初の公式な国際結婚といわれています。
彼女は帰国する夫と共にヨーロッパへ渡り、ウィーンの社交界で「黒い瞳の伯爵夫人」と人気を呼びました。

しかし、光子が30歳のときに伯爵が心臓発作で急死。
遺言に従って彼女は広い領地を引き継ぎ、クーデンホーフ家の当主として一族を取り仕切りながら、7人の子どもたちを育て上げました。
その息子の一人は後に、ヨーロッパ全体をひとつに統合する「汎ヨーロッパ主義」を発表。
現在のEU誕生につながるさきがけで、彼はその本に
「ヨーロッパ人とアジア人の子として、私の世界に国境はない。
ヨーロッパは、世界はひとつだ」と記しています。
それは、母・光子の教えに基づいたものなのです。

その後、光子は二度と日本に帰ることなくウィーンで生涯を閉じますが、ヨーロッパの新聞各紙は彼女に「ヨーロッパ連合の母」という称号を贈りました。

6/2「心のキャッチボール」

高層ビルやタワー、ドーム球場など巨大な建造物の建設工事は、高所での作業や、重くて大きな資材の取り扱いなど、危険がいっぱい。
だからこそ、建設現場の責任者は工事の安全第一に心を砕くことが最大の仕事です。

北九州市の小倉競馬場は、平成11年に全面リニューアル。
その建設工事の現場事務所のロッカーには大量のソフトボールが大切に保管されていました。
なぜ、建設現場にソフトボールがたくさんあるのでしょうか?
ここでは毎朝、すべての建設労作業員を集めて朝礼を行うことから仕事が始まりますが、その朝礼の前に5分間、全員でキャッチボールをしていたのです。

これを発案したのは、現場事務所の所長。
建設現場には危険がつきまといます。
安全第一に作業するにはチームワークが不可欠。
この現場には、会社も違えば作業内容も違う1,000人もの作業員が働いています。
そんな大所帯で現場の一体感を高めていくために、キャッチボールというアイデアを思いついたのでした。

一個一個のボールには作業員一人ひとりの仕事への思いが寄せ書きされています。
それを全員が二人一組になって、素手で投げては受け、受けては投げ返す・・・これこそ「心のキャッチボール」だったのです。

アーカイブ