2017年6月アーカイブ

2017年6月24日「漱石と子規の友情」

明治を代表する文学者、夏目漱石と正岡子規は学生時代に同級生として出会い友情を育んだ親友で、また文学的才能を高めあった盟友でもありました。

しかし出会った頃、子規は肺結核と診断され余命十年を覚悟したといわれ、漱石がイギリス留学中に子規は亡くなります。

それから4年後の明治39年、漱石は「吾輩は猫である」の第2巻を出版。
その序文に留学中に届いた子規の最後の手紙を紹介しています。

「いつかよこしてくれた君の手紙は非常に面白かった。近来僕を喜ばせたものの随一だ。僕が昔から西洋を見たがっていたのは君も知ってるだろう。それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋ヘ行ったような気になって愉快でたまらぬ。もし書けるなら僕の目の明いてる内に今一便よこしてくれぬか。倫敦(ロンドン)の焼芋の味はどんなか聞きたい。」

子規は明るく綴る一方で、「僕はとても君に再会するは出来ぬと思う」と別れの言葉も書き綴っていました。

この手紙に返事を書かなかったことを深く後悔していた漱石は、序文で「吾輩は猫である」を子規の「霊前に献上」すると述べ、作家夏目漱石の第一作を亡き盟友に捧げたのです。

今年、二人は揃って生誕150年を迎えています。

2017年6月17日「モースが見た日本」

明治10年のきょう6月17日、横浜港に着いた船からアメリカ人の動物学者が日本に上陸しました。
そして横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から、貝殻が幾重にも積み重なっている崖を発見。そう、大森貝塚を発見したエドワード・モースです。

モースといえば大森貝塚が有名ですが、功績はそれだけではありません。
ダーウィンの進化論を初めて体系的に紹介し、日本の人類学、考古学の基礎を作ったのはモース。
当時設立されたばかりの東京大学に請われて教授になりますが、ほかの外国人教授の大半が何の実績もないインチキ学者だと見破ったモースは、日本人講師と協力して彼らを追い出し、専門知識を持つ外国人教授の招聘に尽力。
さらに2,500冊の本を集めて東大図書館の基礎を作りました。

また、大学での講義や研究の合間を縫って、日本各地に標本を採集する旅行をし、多くの民芸品や陶磁器を収集。
日本の庶民の風俗や暮らしぶりを多くのスケッチに残し、そのスケッチを元に執筆した本の中で、日本の街の清潔さ、人々の正直さ、礼儀正しさ、心遣いに敬意を抱き、そうした気質が上流階級から庶民にまで及んでいることに感動しています。

学者として客観的で冷静なモースが見た明治日本は、貧しくても限りなく美しい国だったのです。

2017年6月10日「時計と卵」

「18世紀に書かれたSF小説」といわれる『ガリバー旅行記』。その中に、ガリバーがラピュタ国に行く話が出てきます。
その国にはつねにボーッとしている学者がいて、見たり聞いたり話したりする必要があるときには、そばについているメイドが学者をパァンと叩いてあげないと気がつきません。

じつはこのキャラクターには実在のモデルがいます。
それは『ガリバー旅行記』の作者:スウィフトと当時親交があった、万有引力を発見した科学者、アイザック・ニュートン。
実際ニュートンは、端から見るとボーッとしていることがよくあったそうです。
でもそれは、頭の中で何かを集中的に考えて、周りが見えなくなっている・・・そんな表情でした。

ある日、ニュートンは実験の最中に小腹がすいたので、卵を茹でて食べようと思い、片手に卵、片手に茹で時間を計るための懐中時計を握りしめました。
が、卵を鍋に入れてそのまま実験を続けているうちに卵のことを忘れてしまいます。
しばらく実験に夢中になって、はたと卵のことを思い出し、手にした時計を見ようとしました。
しかし、彼が握っていたのは時計ではなく卵。鍋のふたを開けてみると、そこには懐中時計がぐらぐら煮えたぎっていたのです。

6月10日、今日は「時の記念日」。時計を鍋の中に入れてはいけません。

2017年6月3日「マイクって何?」

昭和21年のきょう6月3日、アナウンサーが街頭で人々に意見を聞くラジオ番組「街頭録音」の放送が始まりました。

町行く人々にインタビューした声をラジオやテレビで紹介するのは、いまではごく当たり前ですが、その当時はもちろんテレビはなく、またラジオもスタジオの中でしか収録することができず、ましてや政財界や文化人などの著名人ではない市井の人々が出演するなど想像もできなかった時代です。
でも、戦争が終わって民主主義が日本にもたらされた際に、言論の自由が保障されたことをわかりやすく広めるために、一般の人々にマイクを向けるというラジオ放送初の企画が試みられたのです。

収録の場所に選ばれたのは東京・銀座の目抜き通り。
まだテープレコーダーがない時代なので、大きな録音の機械を積んだ車を駐車場に置き、そこから数百メートルもマイクコードを伸ばしてアナウンサーが街頭録音することにしました。

しかし、結果は散々。
2時間もの間アナウンサーが悪戦苦闘して人々にマイクを向けたのですが、わずか6人の声しか拾えませんでした。
その原因は簡単。
当時の一般の人々がマイクというものを知らなかったからです。
人々はマイクを向けられると、まるでピストルでも突きつけられたように飛び上がって逃げていったのでした。

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