2017年7月アーカイブ

2017年7月29日「井伊直勝の伝説」

今年、注目されている井伊直虎が養育した直政は、徳川家康に仕えて活躍し、一代で徳川家筆頭の重臣となりました。
しかし、関ヶ原の戦いで深手を受け若くして亡くなります。

後を継いだのは嫡男の直勝でしたが、家臣団を率いる力量もなく、病弱で戦場で活躍することもなかったと言われ、家康の裁定によって、弟の直孝が井伊家当主として彦根藩十五万石の藩主となり、直勝は三万石を与えられて安中藩(あんなかはん)の藩主となりました。

当主の座を追われ石高も弟の五分の一と、歴史が伝える直勝は情けない有様ですが、実は直勝の別の姿を伝えるエピソードがあります。

父の後を継いで間もなくから、直勝は彦根城の築城に取り組みますが工事は難航。ついに人柱を立てる話が持ち上がり、普請奉行の娘、菊が名乗り出るのです。直勝は反対であったといわれますが、工事が進まぬ中、菊は白木の箱に納められ人柱となったのでした。

その後、工事は順調に進み天守閣が完成。
直勝は労いたいと普請奉行を呼び寄せます。
するとそこには菊の姿がありました。
白木の箱は空箱とすり替えられていたのです。

この話はあくまでも伝説です。
しかし直勝の聡明さと心優しき姿は、築城から四百年を経てもなお語り継がれるほど人々の心を捉えるのです。

2017年7月22日「少年院のラッパ吹き」

ドングリ眼でトランペットを吹き、渋いだみ声で搾り出すように情感たっぷりに歌う、といえばサッチモ・・・いまは亡きルイ・アームストロングです。

サッチモはニューオーリンズのスラムで生まれ育ち、不良仲間と悪さをして13歳で少年院送り。そこで起床と就寝を知らせるラッパを吹く役目をさせられたことが、音楽との出会いになりました。
その後更正してシカゴに出たサッチモはめきめきと腕を上げ、20歳になった頃には大人気のジャズミュージシャンになっていました。

1950年、サッチモはふるさとニューオーリンズで凱旋コンサートを行います。
演奏が始まってしばらく経ったころ、一人の老人がステージに向かって通路を歩き始めました。
サッチモはこの老人に気づくとトランペットを吹くのを止め、急に泣き出します。
老人はステージに上がると、脇の下に抱えていたタオルを開け、中のものをサッチモに手渡しました。
それはぼろぼろになった小さなラッパ。
サッチモが生まれて初めて少年院で手にした楽器です。
老人はかつて少年院でサッチモにラッパを手ほどきした教官だったのです。

サッチモは老人を抱きしめ、二人して泣きじゃくります。
そして、いつしか二人とも大きな声で笑い合うと会場は大きな拍手。
再びサッチモの陽気で温かい演奏が始まったのでした。

栃木県の日光に初めて外国人が訪れたのは明治3年。
幕末に来日して日本に近代医学を広め、後にはヘボン式ローマ字を考案したヘボン博士です。

しかし、日光ではどの旅館もヘボンを泊めることを拒みました。
明治維新になったとはいえ、日光は徳川のお膝元。
外国人へのアレルギーが強く残る土地柄だったのです。
途方に暮れるヘボンを見て、自宅に招き入れたのが、金谷善一郎という男。
しかし翌日、そのことが村中に知れ渡り、善一朗は村八分に遭います。

翌年の夏、親切にしてくれた善一郎のことが忘れられないヘボンが再び金谷家を訪れると、善一郎もヘボンとの再会を喜び、自宅の一部屋を提供しました。
一夏を日光で共に過ごした二人には友情が芽生えていきます。
しかし外国人を毛嫌いする村人からは嫌がらせを受けたりしました。

そんな善一郎にヘボンは、夏の間、外国人向けに避暑用の部屋を貸して家計の足しにすることを提案します。
そこで善一郎は自宅を改造した宿泊施設を開業。
ヘボンは友人知人に日光の素晴らしさを紹介し、やがて善一郎の宿泊施設には大勢の外国人が訪れるようになりました。

現在、世界遺産となった日光では、日本最古のリゾートホテルとして金谷善一郎の名を冠したホテルが世界中から宿泊客を迎えています。

2017年7月8日「モームの新聞広告」

『月と6ペンス』『人間の絆』などの名作で知られるイギリスの文豪サマセット・モーム。
もともとは医者でしたが、25歳のインターン生活で貧民街の患者と接した経験をもとに書いた小説『ランベスのライザ』が好評を得たため、医者をやめて文学で生計を立てる決意をしました。

しかし、ここからが大変。
次々と作品を出版しましたが、どれも売れ行きは芳しくなく、屋根裏でパンくずをかじる貧困と焦りの日々が続いたのです。

軽率に医者の道を捨ててしまった自分を後悔しましたが、泣き事ばかりいってはいられません。
自分の作品に絶対的な自信を持つモームは、本が売れないのは宣伝が悪いためだと考えました。
確かに、出版社は彼の本にあまり宣伝費をかけている様子はありません。
そこでモームは、自分のやり方で本を宣伝する方法をいろいろ模索します。

出した結論は「花嫁募集」。
ロンドンのすべての新聞社にモームは次のような個人広告を出したのです。
「当方はスポーツと音楽を好み、教養ある温和な若い百万長者です。
サマセット・モームの最近の小説に登場するヒロインにすべての点でそっくりな、若くて美しい女性との結婚を希望しています」

それから数日後。ロンドン中の本屋からモームの本が一冊もなくなりました。

2017年7月1日「遥かな尾瀬」

夏がくれば思い出す、遥かな尾瀬・・・
貴重な動植物の宝庫・尾瀬は特別保護地区で車が乗り入れることはできません。
ただ昭和40年代には観光道路を作る工事が始まりました。

これに一人抵抗したのが平野長靖さん。
明治から続く尾瀬の山小屋の三代目当主で、道路建設が尾瀬の自然を破壊することを心配したのです。
しかし国が承認して予算が計上され、既に工事が始まった公共事業を平野さん個人が止めることはできません。
なんとか手だてはないものか・・・、思い悩んでいた昭和46年7月1日、環境庁が発足。それを知った平野さんは東京に向かいます。
就任したばかりの大石武一環境庁長官に直訴するためです。

平野さんを快く自宅に招き入れた大石長官は、話を聞くとすぐに尾瀬の視察を約束。10日後に尾瀬に出向き、平野さんの案内で丸3日尾瀬の山々を歩き抜いたのです。
見渡す限りの花の間を歩きながら、昼の弁当を食べようと草花の生えていない岩を探し回り、やっと見つけて座る大石長官を見た平野さんは
「この人は本当に自然に対する優しい目を持っている。きっと尾瀬は救われる」と確信しました。

それから1カ月後、観光道路の建設は中止。
国が承認した公共事業を、尾瀬に暮らす一人の男と自然を愛おしむ環境庁長官との出会いが覆したのです。

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