2018年2月アーカイブ

2018年2月24日「江戸城天守閣焼失」

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた江戸時代の最大の火災、明暦の大火は四代将軍徳川家綱16歳の時に起きたもので、江戸の街の大半が焼き尽くされて、死者は一説には10万人とも言われ、江戸城天守閣まで焼失する甚大な被害となりました。

幕府は直ちに天守閣の再建を進めますが、反対の声を上げたのが会津藩主の保科正之でした。
二代将軍秀忠の四男でありながら保科家に養子に出されるなど苦労の多かった正之は、兄の三代将軍家光の深い信頼を得て会津藩主となり、家綱の後見を託されたのです。

正之は「天守閣は戦国の世のもので時代遅れ。今は城下の復興を優先させるべき」と提言。
これによって再建は後回しにされて、被災した人々の救済や江戸城下の火災対策の整備が精力的に行われました。

当然、莫大な経費がかかりましたが、危惧する幕閣に正之は「幕府の蓄財は、このようなときに使ってこそ。今使わなければ無いのも同然」と一喝したと言われます。

実は天守閣は、家康が築造したものを秀忠が破却して再建、秀忠の天守閣を家光が破却して再建と三度に渡って築かれ、その度に諸大名の重い負担となっていました。

その愚かさにも歯止めをかけた正之。
その後、歴代の将軍が天守閣を再建することはありませんでした。

2018年2月17日「ハポンさん」

ヨーロッパのスペイン南部にある町コリア・デル・リオには「ハポン」という姓を持つ人が600名ほど暮らしています。

ハポンとはスペイン語で「日本」を意味する言葉。
彼らは皆「自分たちは日本から来た侍の子孫だ」と言っているのです。
そこで歴史を調べてみると、400年ほど昔に日本人の足跡が確かにこの町にありました。
仙台藩の伊達政宗がスペインと通商を結ぶために、支倉常長をリーダーにした慶長遣欧使節団をスペインに遣わしましたが、使節団がスペインに渡ってしばらく滞在したのが、この町コリア・デル・リオだったのです。

さらに使節団のその後を追っていくと、リーダーの支倉常長らは7年後に日本に帰国しましたが、日本に戻らなかった団員が8名ほどいて、ひょっとしてその8名が陽気なスペインの人々と風土に惹かれてしまい、そのままコリア・デル・リオの町に住み着いて、子孫を作っていったのかもしれません。

ちなみに、ヨーロッパでも昔から米づくりをしていますが、その稲作は籾を直にばらまくやり方。
でもこの町の周辺では日本と同じように苗床を作って水田に植えていく風習があるのです。
これはスペインはおろか、ヨーロッパのどの地域でも見られない方法。
日本に戻らなかった使節団のだれかが栽培技術を伝えたと考えられています。

昭和45年2月11日、日本初の人工衛星「おおすみ」が鹿児島県の大隅半島・内之浦から打ち上げに成功しました。

この計画を成し遂げたのは、当時の宇宙科学研究所の若き研究者チーム。
彼らは内之浦の町に長期間泊まり込み、共同生活をしました。
でもロケットの打上げは延期されることも多く、また打ち上げても何らかの不具合で何度も失敗します。
そんなときのチームのストレス発散は、悪戯です。

その日はチームリーダーの誕生日。
お祝いにと後輩たちがとっておきの芋焼酎をプレゼントしました。
瓶のラベルには、大隅半島の大隅と大きな海と書いた「大隅大海」の文字。
「聞いたことない名前だが、こんな酒があるのか。何か変な物が入ってるんじゃないだろうな」とリーダー。
「とんでもない。正真正銘の大隅大海です。僕たちから衛星打ち上げ成功を祈る先輩へのささやかなお祝いですよ」と後輩たち。
「そうか、ともかくありがとう」と言ってチームリーダーは皆と乾杯し、ちびちび飲み始めると、すぐに「何だこりゃ!塩辛いぞ」と叫びます。
じつはこの大隅大海、焼酎が3分の1で、残りは大隅湾の海水を詰めたものだったのです。

このような可愛い悪戯を積み重ねながら8年の歳月、14回の打ち上げ失敗を経て、人工衛星「おおすみ」が宇宙に飛び立ったのです。

2018年2月3日「万次郎の父」

1851年のきょう2月3日、25歳の青年が10年ぶりに日本に帰ってきました。
彼の名はジョン万次郎。
漁師の万次郎少年が乗った漁船が難破して漂流しているところを米国の捕鯨船に助けられ、そのまま米国に渡って教育を受けた彼は、この日に幕末の日本に帰国し、やがて幕府の直参となって日本の開国と近代化に大きく貢献します。

万次郎の命を救った米国の捕鯨船。
その船長ホイットフィールドは明るく利発な万次郎少年に心を奪われ、そのまま万次郎をマサチューセッツの自宅に養子として迎え入れます。
そして学校へ通わせ、英語や数学、航海術、造船技術などを学ばせました。
万次郎の成長ぶりはホイットフィールドにとって大きな誇りで、その期待に応えて万次郎は寝る間を惜しんで勉強し、学校を首席で卒業した後、一等航海士になりました。

10年後、万次郎は日本へ帰国しますが、明治になって万次郎が日本政府を代表して外交のためニューヨークを訪問した際には、父と慕うホイットフィールドに会うために数日かけて旅をしました。
二人が一緒に過ごしたのはたった一晩でしたが、その夜は二人とも一睡もしないで語り合ったそうです。

そしてこれが最後のお別れとなってしまうのですが、二人の絆は世代を超え、万次郎とホイットフィールド両家のそれぞれの子孫の交流がいまも連綿と続いています。

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