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2020年4月11日「解体新書始末記」

江戸時代に出版された『解体新書』というと杉田玄白の名が知られていますが、もう一人、前野良沢も大きな役割を果たしています。

『解体新書』はオランダの医学書を日本語に翻訳したものですが、玄白や仕事を手伝った仲間たちはオランダ語が分からず、蘭学者の良沢がもっぱら翻訳作業に当たり、3年半かけてようやく完成させたのです。
しかし出版された『解体新書』に杉田玄白の名はあっても、前野良沢の名はありません。

良沢は、一度は翻訳作業を終えたもののまだ不完全だと考え、さらに年月をかけて完全な翻訳をなし得てから出版すべきだと主張しました。
しかし玄白は、出来映えに難があっても一日も早く世に出すことが大事だと主張。
良沢はそんな玄白の考えについていけず、学者としての良心から自分の名を公にすることを辞退したのです。

『解体新書』が出版され玄白の名声が高まる中、良沢は書斎に閉じこもり、一人黙々とオランダ語の研究に没頭しました。
でも、このことで二人が仲違いしたわけではありません。

じつは当時『解体新書』の出版は幕府の咎めを受ける恐れがあり、その危険から守るために玄白は良沢の名を入れなかったともいわれています。
また玄白は晩年、自身の回顧録の中で、「前野良沢の存在なくして自分の人生はなかった」と、盟友への謝意を示しています。